ブラ○モトシ 寺社編 Vol.15 水天宮仮宮編
今日は現在再建中につき移転中の「水天宮仮宮」まで行ってきました。
ちょっと短めダイジェストムービー↓ ↓ ↓
身重の妻となのでゆっくりと秋葉原までブラり。
戌の日は以上に込み合うということで先に帯だけいただいて次の日の戌の日に巻こうねということになりました。とりあえず安定期に入って一安心。
■ 水 天 宮
さて、水天宮。
水と子供を守護し、水難除け、農業、漁業、海運、水商売、また安産、子授け、子育てについて信仰が厚い。水天宮の縁日は毎月5日(5日・15日・25日とすることもある)であるが、犬のお産が軽いことにちなみ、戌の日は安産祈願の人で賑わう。
久留米水天宮が総本宮なんですね。
ほいでもって東京の水天宮はというと
福岡県・久留米市にある久留米水天宮の分社で、祭神は久留米水天宮と同じ天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)である。
江戸時代より安産・子授けの神として人々から厚い信仰を集める。妊婦や子供を授かりたい夫婦あるいは無事出産できた夫婦などが、安産や子授かりの願掛けやお礼参りなどで人並みが途絶えることがない。
現在は社殿改築のため、日本橋浜町に仮宮が設けられている。
ふむふむ。安徳天皇と建礼門院って平氏の最後の壇ノ浦のアレですよね。
そうなのかー。そうなんだー。
でも幼少でなくなった天皇が祀られてるのに子守の神様とはこれ如何に?
そこは調べてみてください。ここら辺の由来とかって長い年月で割とそんなことなんかいってのが由来だったりして面白いですよね。
実際は半蔵門線「水天宮前駅」からすぐのところにあります。
もともと2階建ての面白い社だったんだけど、どうなるのか今から楽しみですね~
いつできるんだろ?
そう言えば2年前に一人でお参りに来た時に「子授かり絵馬」を貰って帰ってきてたんですよね~
すごいねーご利益ご利益。今回ちゃんと返納してきましたよ。
子宝わんちゃん像だけは水天宮に近いロイヤルパークホテルにあるそうなんでご注意を。
ブラ○モトシ 寺社編 Vol.14 今戸神社・鳥越神社編
前回の続きです。
だいたい台東区の下半分をぐるっと歩いた感じですかね~
およそ9キロくらいの道のりの後半部分です。
とりあえずダイジェストムービーをどうぞ。
■ 今 戸 神 社
すっかり縁結びの神様として有名になった今戸神社。
新撰組の沖田総司終焉の地としてはあんまり有名じゃないのかしら?
これは諸説あって千駄ヶ谷の植木屋さん説と、ここ説。
ここ説は新撰組の主治医だったあー誰だったっけ?
松本良順でした。彼の仮住まいがあったからここで亡くなったという説があります。
面倒なのでウィキコピペ。
由緒[編集]
沖田総司終焉の地と今戸焼発祥の地の石碑
今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。また永保元年(1081年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り、戦勝祈願をしたといわれている。大正12年(1923年)9月1日の関東大震災や太平洋戦争の際、米軍の爆撃機B-29が昭和20年(1945年)3月10日に焼夷弾を投下したり(東京大空襲)など数々の戦乱や火災に見舞われたが、その都度再建され、現在の社殿は1971年(昭和46年)に再建されたものである。1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八幡と呼ばれていた当神社が現在の今戸神社と呼ばれるようになった。また現在では浅草七福神のひとつ福禄寿も祀っている。
新説・招き猫発祥の地[編集]
今戸神社は、近年になって招き猫発祥の地のひとつとして名乗りをあげた。[1]。伝わっているところによると、江戸時代末期、界隈に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして浅草神社(三社様)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったという。(今戸焼丸〆猫参照)これが招き猫の発祥ともいわれているが当時の記録では具体的に招き猫と今戸神社(旧今戸八幡)との結びつきを示すものは確認されていない。近年の招き猫ブームによって今戸神社は招き猫発祥の地として看板を掲げるようになり多くの招き猫が奉られるようになった。本殿や境内に安置されている招き猫の形状は江戸明治の今戸焼の招き猫とは形状の全く異なるものなので、考証的には伝統的なものとの関わりのない平成の創作として見る必要がある。
また、焼物として使うこの土地の粘土が良質のものだったことから、今戸焼が栄えたこともある。沖田総司の終焉の地[編集]
当神社は幕末の志士・沖田総司の終焉の地ともいわれている[2]。これは、結核を患っていた沖田総司を診ていた松本良順が当時今戸神社を仮の住まいとしていたことからきている。縁結びの神[編集]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%88%B8%E7%A5%9E%E7%A4%BE
戦前合祀された白山神社の祭神に伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦の神を祀っていることから、近年になって縁結びにゆかりがあるとアピールされている。また、絵馬は他の神社では見られない「真円形」のデザインの絵馬である。これは縁と円の語呂を掛け合わせたモダンなデザインのものとなっている。
神社ってこういう路線に走るか、それかもともとメチャクチャ由緒ただしいか。
でも実はどっちでもない神社が沢山あってそういう方が好きですね。
でもここまで観光地化してるとそれはそれで楽しいw
神社巡りはやめられませんね。
■ 鳥 越 神 社
次は鳥越神社。
浅草からは蔵前を過ぎて結構南下しますので、歩くの好きじゃなきゃオススメしませんw
蔵前駅からは徒歩でちょこっとみたいですよ。
ここはサイトがすごい!
テキストサイト。
¹z_Ð -MATURI IN TOKYO-
いいですねー。
鳥越祭りが有名ですね。
何度となく蔵前橋通りを通っては眺めてましたが、実際にお参りするのは初めて。
意外と小じんまりした境内でしたが、高い木々に囲まれてて神域と言う感じがして好きです。
鳥越神社(とりこえじんじゃ)は、東京都台東区鳥越にある神社である。白雉2年(651年)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝えられている。例大祭に出る千貫神輿は都内最大級を誇る。 例大祭(鳥越祭、鳥越まつり)は、平成25年度(2013年)は、6月8日(土)、6月9日(日)に開催される。
これすごくなんでもないんだけど境内ね。
はい、そんな感じの初夏のブラモトシでした。
地図を見て頂くとわかるとおり、このあと僕はユニクロ浅草ROX店でサイズがなかったズボンを求めて御徒町店(デカイ)までいって、なぜかズボンを4着買いましたw
おしまい。
ブラ○モトシ 寺社編 Vol.13 浅草神社・待乳山聖天編
先週に続いて全部盛りカメラSX280HSとライカを持ってブラブラしてきました。
いいっすねー苦節2年と半年だっけ?
やっとブログらしくなってきました。
え?前回まで、ライカじゃないと撮る気しないって?
いやいや、あれは「モノクロでプリントするならライカでしょ」ですから。
では今回もダイジェストムービーモードがほぼ勝手に作ってくれたダイジェストムービー。
昔は色々紐解いてたんですが、最近はもう散歩するのが楽しくてしょうがなくてね。
今回は4つの寺社を巡ってきましたけど、前半は2つ。
■ 浅 草 神 社
雷門の浅草寺はとてつもなく有名ですが、その隣におわすのが浅草神社。
三社祭りはこの浅草神社の例祭なんですよ。
たぶん準備してたから今週末とかじゃないですか三社祭り。
それはもう人が沢山集まるそうですが、僕は見たこと無いです。。。
ではまたwikiで詳細を…
浅草神社の草創に関わった土師真中知(はじのあたいなかとも)[1]、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)を主祭神とし、東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀する。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%8D%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE
平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。ご神体として一般の人間(漁師と僧侶)を祀っている為、神社の格としては江戸一低いといわれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%8D%89%E7%A5%9E%E7%A4%BE
明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称した。
なるほどなるほど。
浅草寺にいったらぜひ浅草神社もお参り下さい。
今日はね、神楽殿が開いてたんですがなかなか立派でした。ムービーにもちょこっと写ってます。
■ 待 乳 山 聖 天
起源は象頭体人のガネーシャである聖天様を祀っていて、浅草寺の子院なんですねー。
大根と巾着がシンボルで、それぞれ夫婦和合・金運のご利益があるとされてます。
本龍院(ほんりゅういん)は、東京都台東区浅草にある聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつである。山号は待乳山。本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音で、待乳山聖天(まつちやましょうでん)とも称される。この寺には浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%99%A2
待乳山という標高10mという山の上らしいです。
この山はね、浮世絵にも描かれてたりするんですよ。
大根は境内で売っててそれをお供えします。
お持ち帰り用大根も置かれてましたね。お供えしたらいいよってことでしょうか。
大根とか蕪はちょこちょこセックスシンボル的扱いで寺社に祀られてますよね。
なんか発想が単純(みたまんま)でいいですよねw
今回は5.51マイル!マイルわからんw
約8.8キロ。んー結構歩いた気がするんだけどなー。
最後の上野と御徒町を行ったり来たりしたのが体感的に長く感じたのかと思います。
というよくわからん話で次回に続く。
ブラ○モトシ 寺社編 Vol.12 江北氷川神社・川口神社編
ついに半年ぶりに「ブラ○モトシ」再開!
いやーいいですねーGPSデジカメ。
こんな感じで自分の歩いた軌跡を記録してくれるんです。
ちなみに今日は7.2マイル歩いたそうです。
11.5Kmくらい?マイルって全然ピントこないな^^;
SX280は「オートダイジェストムービー」という変な機能がついていて、このモードにするとオートでしか撮れない変わりに、撮影の4秒前までを動画で記録してくれて、それをつなぎ合わせてくれるんですって。
少し編集したけど概ねこんな感じで撮れるんです。
■江北氷川 神社
ここら辺(江北・鹿浜地域)の総鎮守のようですね、小台や宮城も地域に入ってたそうなんで結構大きい神社なんですね~。でも実際は結構小じんまりしていて、僕の苦手な「おせっかい」タイプの神社でした。
「おせっかい」ってのは聴いてもないのに由来とか色々書いてあったり、案内が多いあれですね。
でもね、しばらくいたら意外と近所の定食や的なね、親しみがわいてきました。
ああ、そういう神社なんだな、と。敷居が高くないぞと。
あとからいく川口神社と正反対でね、あっちはきちんとしてんだ。
だからなんかパワースポット!って感じはするけど、ちょっと気取ってると言えば気取ってる。
神様も色々な住まいがあるということですね。
江北氷川神社一帯は、『足立姫伝説』(聖武天皇の御代・今から約千三百年前)発祥の地としても知られ、江戸時代には「六阿弥陀詣」の参詣者でたいへんにぎわいを見せた地域であります。現存する手水鉢(庚申塔も兼ねている大変珍しいものです)には、今から約三百年前、元禄十二年(一六九九年)に下・上沼田両村の氏子中によって奉納されたものであるという刻印があり、当時より地域の篤い崇敬を受けていた事が窺えます。
http://www.hikawajinja.com/yuisyo1.html
当神社は、明治初年村社に昇格し、同時に旧江北村(沼田、鹿浜、鹿浜新田、加賀皿沼、高野、谷在家、宮城、小台、堀之内)九ヵ村の総本社となり、お正月、節分、九月の秋季大祭には盛大な祭礼行事が執り行われています。
願い事成就の古社 江北氷川神社
あ、なんかサイトとか見てたら更に親しみが…。
なんだかこう悪くないっすね~
■川口神社
で、こっちが川口神社です。
川口神社はもと「氷川社」と称し、川口町の鎭守氏神(土地を治める神様)として古くから領主・住民の崇敬を篤く頂いておりました。創始の記録は河川の水害と共に失われましたが、天慶年鑑(てんぎょうねんかん:西暦940年前後)と伝えられており、暦応二年(1339年)及び天文四年(1535年)の板碑や室町初期の古神像、江戸期の棟札等が残されています。
http://www.geocities.jp/kawagutijinja/yuisyo.html
おお、そうですか。こっちもお氷川さんなんですね~
この辺り氷川神社が多いんですよ。
江北と川口の間にも一社あったし、荒川の対岸にもあるんですよね。
農業用水として役割が大きい半面氾濫を起こす暴れ川・荒川の本支流域に多く、ヤマトタケルの東征経路や、8世紀に出雲族出身の无邪志国造が開拓したと伝えられる地域と一致した分布を示しており、氷川という名も出雲国の簸川(ひかわ、現:斐伊川)に由来するとされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E4%BF%A1%E4%BB%B0
中世以降、源頼朝を始めとする坂東武者の信仰の対象にもなり、各地へ勧請された。氷川神社より勧請を受けた神社は、関東地方を中心に260社以上ある。かつては「氷川明神」と称し、江戸時代には江戸市中の7社を特に「江戸七氷川」と称したこともあった。現在、スサノオ以外にもクシナダヒメ・大国主の妻子(孫)を配祀する社が多い。
なるほどね~
大宮のねお氷川さんも奥さんの実家があるので良く行くんですよ。
そういう由来があるんですね~勉強になりました。
■道中フォト
道中デジカメで撮った写真をフィルムシュミレーターで仕上げてみました。
カラーがポートラ160NCでモノクロはトライXです。
これいいな買おうかな。
デジカメのおかげで無駄撮りも減ってフィルムは1本の消費だけで済むし、レンズも1本しか使わなかったし、マクロで寄れるし望遠で引き寄せられるし、スマホにワイファイですぐ送れるし、帰ってきてからもWifiで全部PCに送れるしその日に記録が残せるし、カラーも撮れるし便利なことづくめですわ~
ブラ○モトシ 寺社編 Vol.11 巨福山建長興国禅寺
三門
ええと少し前にも書いたんですが、今回はいつもは嫌っている「旅行雑誌みたいな写真」というものに少しフィルムを割いてみようかと思いまして撮りました。
いわゆるお寺の見どころをそのまま撮るという。この行為の中に僕は何かを見出すことができるのか!?
なんか最初っからまとめればよかったな今回は。
地蔵菩薩坐像
ブラ○モトシ 寺社編 Vol.9 葛飾極楽寺
ブラモトシ寺社編。今回は葛飾区堀切にある極楽寺を訪ねました。
葛飾区堀切と言えば「菖蒲」。
「堀切菖蒲園」が有名な堀切ですが、江戸時代は今の荒川の対岸東武伊勢崎線「堀切駅」付近が菖蒲の里として有名だったそうです。
今では川をはさんで別々の地域のように見えますが、江戸時代は荒川はなかったのでこの地域一帯は菖蒲が咲く低湿地だったんでしょうね。
いつもは古地図を見てみるところなんですが、この一帯は本当田畑ばかりの郊外だったようなので、今回は割愛して、現代図をみてみましょう。
いぼとり地蔵の極楽寺
京成線「堀切菖蒲園駅」から少し歩いた所にある「堀切菖蒲園」。
そこから数分のところに「極楽寺」があります。
その昔、堀切に有名な美男子がいたそうです、イケメンですね。イケメン。
引く手数多だった彼、ある日顔中イボだらけの病気にかかってしまったそう。
そこで、この極楽寺で仏様に日参したところ“地蔵を作って塩を塗り、それを顔に塗ればたちまち治るであろう~”というお告げをいただいたんです。
そして、その通りにしたら見事イケメン長助さんはもとのイケメンに戻れましたそうな、めでたしめでたし。
3つならんだ像の右の小さい像は長助さんが実際に奉納したお地蔵さまなんだそうです。
ネコに癒され極楽寺。
ちょうどお寺の方とお話する機会があったんですが、どうやらある日2匹の迷い猫が住み着いて、あれよあれよと増えていったんだそう。
一枚目の白いネコがお母さんの「シロコさん」。
庫裏にも沢山のねこが暮らしていて、数匹は喧嘩が弱いからケージで暮らしてるんだそう。
鳥や虫を追いかけたり、枯れ葉で遊んだり…。
ネコ好きにはたまらない「極楽寺」でした。
1時間近くお話したりネコちゃん達の写真を撮らせてもらったり。。。
寺社巡りはやっぱり楽しいですね~
さて、さて、次に向かうは、、、
はい、最近ハマり始めの「ジャンクション」!
今回は首都高中央環状線と向島線が交わる「堀切ジャンクション」に行ってみます。
綾瀬川と荒川が並行に走るその上をまた走る首都高速。
川面とハイウェイのコントラストがまたたまりません。
ということで、しばし日が暮れるのを晩秋の寒空のした待つのでした、、、、
次回「ブラ○モトシ ジャンクション編」につづく…。
ブラ○モトシ 寺社編 vol.8 麻布山善福寺
ブラ○モトシ寺社編。今回は港区麻布の善福寺を訪れました。
善福寺、山号を「麻布山」。
江戸時代は「麻布山」と呼ばれていたそうで、「あざぶ」の名はこの寺から字を充てられました。
江戸初期の麻布は農村地帯と寺社地が広がる小高い山でした。
江戸の拡大に伴って次第に都市部が移り、武家地が広がる街へと変わってきたのです。
では早速古地図を見てみましょう。*1
小高い山の上に建てられた善福寺。周辺に坂道が多いことでも少し高い場所にあったことがわかります。
現代図と見くらべると、今では高速道路が通る下に古川が流れ、町の形は変わりないことがわかります。
古地図を現代図と同じ北を上にするとこのようになります。
都電が廃止されてからは、交通はバスに頼ることが多かった麻布界隈ですが、いまでは南北線・大江戸線両地下鉄が通る「麻布十番駅」の為にアクセスもよくなりました。
昔から閑静な大人の街として知られてきた麻布は坂の町でもあり、そこかしこに古き良き街並みを散見することができます。
麻布山善福寺
菊の紋があしらわれた立派な山門が目を引く善福寺は、824年弘法大師・空海によって開山されました。
鎌倉時代、越後に流された親鸞が京にもどる際に当寺を訪れ、聖人の高徳に傾倒し浄土真宗に改宗したとされています。
境内では巨大なイチョウの木が出迎えてくれました。
ハリスと善福寺
アメリカ初代駐日領事であるタウンゼント・ハリスは1856年、伊豆下田に上陸。1859年にアメリカ合衆国公使館が善福寺に設けられ、駐在することになりました。
1862年、体調不良を理由に辞任。滞在期間5年9カ月、ハリスの日本に対する感情は非常に好意的だったそうです。
1875年築地外国人居留地に移転するまでの12年間、善福寺には星条旗が掲げられていたことになるんですね。
そんなハリスを称える顕彰碑がこの欅の木の下にあります。
親鸞と逆さイチョウ
前述の親鸞が訪れた際に植えたとされるイチョウの木。
ことの信憑性は定かではないですが、親鸞聖人像、越路吹雪の碑と共に境内墓地に多数の枝を茂らせていました。
樹齢約750年。国の天然記念物にも指定されている巨木は福澤諭吉もおそらく目を見張ったのではないかと思います。
当時頻繁に当寺を出入りしていた福澤諭吉の墓所がここにあります。
大改修が終わった本堂。
麻布山幼稚園の園児達の声を聴きながら、境内裏にそびえたつ「フォレストタワー」を見上げ歴史ある寺を後にしました。
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↑周囲の環境が違うとこうも変わるものでしょうか、山の手の名刹。今度はまた秋にでも訪れてみたいと思いました。
*1:人文社 もち歩き江戸東京散歩より