写真はもっと論ずるべきであると思う。
まずが師匠(認められてない)のポストを読んでください。
暫定解 ~「良い写真とは?論」は、もしかしたら論じる事自体が不毛なのかもしれない - B side of Ichiro S.
はい、読みましたね、別に師匠(認知されてない)に逆らうわけではないんですよ。
ご覧の通りことの発端は僕がぶつぶつ言ってたところにあるような気がするんですが、そもそもは「自分の撮った写真に対して」というニュアンスで考えていました。
で、結論としてはイチローさんの書いてある通りでいいと思うんですよ。
ただね、僕は写真を撮ることを楽しみ、より良くを目指す為にはもっともっと論じることが必要だとも思うんです。
僕が嫌いな写真
が、最初のこの一枚なんです。
どうして嫌いかというと「誰だって撮れる」し「何の感情もない」からなんですね。
そんなことを語る日が来るかもしれないと思って記念に撮っておいたんですが、まず第一に
ここに立てば誰でも撮れる
というのが嫌いです。
一億人総カメラ所持のこの時代。一億人てことはないか。
でもまぁみんなもってんじゃん。カメラ。スマホでもいいし。
ここに立って、踏切がなってるのに気が付いてさ撮ったらだいたいこうなるよ。
もちろん置きピンしたり露出を勘でとったりはしたけどね。
そしてこれらの写真を僕がアーカイブにアップすると「いいね!」と言われることがある。
ただ、それらは「写真がよかった」「電車かっこいい」「ここ行ってみたい」とか色々なケースがあると思うんだけど、それはあくまでそれであって僕はただ技術をもってこれを撮っただけなのだ。
だから嫌い。
だけど「いいね!」となる。
このメカニズムがなんだかよくわからなくって、だからそんなことを考え始めたのだった。
写真はもっと論ずるべきであると思う。
パリのサロンで、神田のアパートの四畳半で。
まぁ場所なんかどこでもいいし、養老の滝だっていいんだけど、、、、
と、ここまで書いて気がついた。
写真はもっと「養老の滝」で論ずるべきである
だな。
誰が見てるかわからない世界よりはある一定の層が集まって、もっとわいわいがやがやと論じたらいいんだ、限られた空間で。
そして刺激を与えあって、自分を磨きあって「もうこれが撮れたからカメラは置くか…」となるまでグダグダしたらいいんだ。
「君が木村伊兵衛になる可能性はゼロではない。」
という言葉を言われたことがある。
そこにはアマチュアだろうがプロだろうが、ライカだろうがコニカだろうが関係ないのだ。
その言葉を信じてやっぱり僕はグダグダとゆらゆらと写真を撮り続ける。
別にイデオロギーがないわけじゃないけど、自分がスゲーと思う人に近付く為には自分が自分をスゲーって思うしかないし、その為には人からの「スゲー」も少々必要だったりする。
そうだ、まずは水道の蛇口をひねろう。