ブラ○モトシ 日光街道編 前夜祭 日本橋~千住宿
【あらすじ】
東海道を歩いて京都まで行く!といって三島まで行ったもののなかなか京都は遠いもんです。
昔の人でも最短20日はかかったそうですから…。
そんなところで目に入ってきたのが「初心者には日光街道がオススメ!」の文字。
じゃ、先にそっちからいこっかなー(^_^A;)
現在地はここ!
とりあえず前夜祭は千住宿の入り口まで日本橋から行きます。
これまでのログはこちら。
【東海道編】
一日目 日本橋~川崎宿 全5編
二日目 川崎宿~戸塚宿 全6編
三日目 戸塚宿~大磯宿 全5編
四日目 大磯宿~箱根湯本 全5編
五日目 箱根湯本~三島宿 全6編
ダイジェストムービー
ダイジェストムービーを作ってみました。ダイジェストムービーモードという機能で撮ってます。
再び出発!日本橋
さて、そうと決めたら早速出発です。
日光街道はもともと奥州街道と呼ばれてたんだけど日光に東照宮ができてからはそっちがメインになっちゃったってやつです。奥州街道は福島白河まで。厳密にいうと青森の方まで続いてんだ。
幕府の管理は白河までって感じです。青森は遠いなー。
ただ日光街道には1つ問題が。
千住宿が家から近い
はい。
わざわざ日本橋まで行く理由が見つからない。
仮に僕がモト衛門かなんかだったとして、千住宿まで行きますよ、家から。
でも、なんか日本橋から出発しないと気分が盛り上がらない。
そこで折衷案として日本橋から千住宿まで先に歩いておこう作戦です。
仕事をちゃちゃっと終わらせて、日本橋に到着したのは午後9時。
平日ですが、なんかいい感じに飲んでる人ばっか、ずるい。
三越とかマンダリンホテルとかきれいだなーとみあげつつ「室町三丁目南交差点」まで向かいます。
十恩公園と伝馬町牢屋跡
さて、しばらく歩くと伝馬町です。
ここらで晩御飯を食べて少し寄り道してきます。
まずは「大安楽寺」。夜ですからもちろん閉まってますが。
ここは伝馬町の刑場跡なんですねー吉田松陰もここで処刑されたそうです。
そして牢屋があったのが十恩(じっし)公園。
松陰縁の碑がいくつかあるらしいんですが、なんだか工事中でフェンスだらけ…。
しょうがないからズームレンズを金網の間に入れて。
あの時の鐘は1711年製、もともとは江戸城にあったそうです。
GPSマップの「総武本線」ってとこの「本」の辺りでチョコンと上に飛び出てるでしょ。
それくらいの寄り道でした。街道沿いではないです。
浅草橋と浅草見附
街道に戻って大伝馬本町通りを歩いてくと馬喰町(ばくろちょう)にでます。
ここは繊維関係の問屋街ですね。夜なんでただのシャッター街ですが。
そして馬喰町を抜けると今度は浅草橋にでます。
ここらで国道六号に合流です。
浅草橋を渡ると袂に浅草見附跡の碑がありました。
江戸三十六見附ってやつの1つです。
赤坂見附とか四ツ谷見附とかみんな仲間ですね。
虎ノ門・半蔵門なんかも同じです。見張り用の門があったよということです。
常盤橋門なんかは門の足場の石垣が残ってたりして往時の姿がよくわかりますよ。
さて、四号線をどんどん北上していきます。
蔵前・駒形・浅草
あと僕が渋った理由にここら辺は慣れ過ぎてるってのもあって、いつもの道なんですよね~^^;
でもあんまり深夜に来たことはなかったのでとりあえず夜歩きまわってる外国人観光客ってこんなにいるんだということがわりましたw
駒形まで来ますと…あーこれ!なんだったっけ?ピカチュウではないな。
たまごっち?とかだっけw
その奥にはアンパンマン・パックマン・ドラえもん・ウルトラマンとそうそうたるメンバーです。
はい、ここバンダイ本社ビル。
パックマンがいるからナムコとバンダイって合併したんだっけ?
昔パックランドっていうファミコンのソフトがあって、上ボタンがジャンプなことがどうしても解せませんでした。
となりには「駒形どぜう」です。江戸っ子も今ではどぜうは食べません、あまり。
もう少し進むともう浅草ですね。
でも浅草橋と浅草はそれなりに離れてますから、観光の際はご注意を。
ところで浅草寺の雷門前のこの一角。なんだと思いますか?
はい!浅草の一里塚があったそうです。
もはや跡かたもないですが、東海道の金杉橋一里塚と同じように別になくても良かったんでしょうね、最初から。わかるし。
山谷掘・泪橋・小塚原
以前もブラリとしたんですが待乳山聖天や今戸神社などを超えまして、
ブラ○モトシ 寺社編 Vol.13 浅草神社・待乳山聖天編 - ブラ○モトシⅢf
ブラ○モトシ 寺社編 Vol.14 今戸神社・鳥越神社編 - ブラ○モトシⅢf
山谷地区へと入ります。
ここは清川とか日本堤とかの住所なんですが「山谷地区」と呼ばれまして、それなりにデンジャーな香りがします。でも中学生のころはよく遊んでました友達がいたんでここら辺。
でもまぁいい雰囲気ではないので文字通り足早に歩きます。
山谷掘りってのはあれですね、昔隅田川からチョッキ舟でね吉原遊郭に入ったってヤツですね。
字はどうかいたっけ?ああ「猪牙舟」ですね。先がとがってるからとかだったよね。
あ、でもあれなんですってね、最近は治安も良くなって簡易宿泊施設も外国人旅行者でにぎわってるんだそう。確かに歩いてる時女の子二人連れとか危ないなーと思ってたけど、そういう人達なんですね。
そんなこと思いながら夜の街をテクテク歩いてると明治通りとぶつかりましてここが「泪橋」です。
明日のジョーで有名なね。川も暗渠になってて橋の形はしとりませんです。
そういえば泪橋は東海道にもありましたね。はい、そうです鈴ヶ森刑場前の立会川に掛かる橋。
今は浜川橋と名前を変えていますがもとは泪橋でした。
処刑される人との最後の別れの場だったんですね、だから涙橋。
南千住の駅を越えて左手延命寺から回向院の辺りまでが小塚原の刑場跡。
回向院には吉田松蔭、橋本佐内、頼三樹三郎らの墓があります。
安政の大獄ですね。
この先素盞雄神社(すさのおじんじゃ)の所で地下道でくぐった現日光街道に合流します。
南千住駅から国道までの通りがコツ通り。骨が通ったからコツ通りなんですね。
僕が子供のころは南千住なんて何もなかったんですけどね。
今ではこっちの方が便利なくらいに栄えちゃいました。
千住大橋到着!
日光街道前夜祭も間もなく終了。
スサノオ神社のところには芭蕉句碑がありました。
「行春や鳥啼魚の目は泪」(ゆくはるや とりなきうおの めはなみだ)
過ぎゆく春のように名残り惜しいみんなとの別れ、飛ぶ鳥も魚も涙を流してるだろう
ってな感じでね、風流ですね。
ちなみに千住大橋の千住側にも矢立の碑があります。
どこから上陸したかは定かではないんですが、芭蕉は三月の暮れに深川の庵から船に乗って旅立ちまして、ここらで船から降りました。今の暦でいうと四月の暮れから五月の上旬頃。
いい加減深夜になってきて僕のカメラでは撮れそうもありません。
日光街道は国道から分岐して千住宿へと入っていきます。
次回はこの足立市場前から再スタートということで、前夜祭では2里ばかり歩きましたとさ。
つづく。