ブラ○モトシ 日光街道編 一日目 千住宿~粕壁宿#2 草加宿到着
【あらすじ】
日光道中一日目開始前に千住に入宿。
早朝千住を出発して目指すは粕壁宿。
東武線梅島駅まで来まして現在AM6時。
現在地はここ!
日光街道はずっと北上なので地図も横にしときます。
これまでのログはこちら。
【東海道編】
一日目 日本橋~川崎宿 全5編
二日目 川崎宿~戸塚宿 全6編
三日目 戸塚宿~大磯宿 全5編
四日目 大磯宿~箱根湯本 全5編
五日目 箱根湯本~三島宿 全6編【日光街道編】
ブラ○モトシ 日光街道編 前夜祭 日本橋~千住宿 - ブラ○モトシⅢf
ブラ○モトシ 日光街道編 一日目 千住宿~粕壁宿#1 千住宿出発! - ブラ○モトシⅢf
ダイジェストムービー
ダイジェストムービーを作ってみました。
シャッターを押す直前の約4秒前までを、自動的に1280×720ピクセル(30 fps)の動画で記録してくれる「プラスムービーオート」という面白い機能を使用してます。キャノンのパワーショットSX280HSってカメラです。新品は売ってないんでヤフオクでどうぞ。
足立区をモクモク進むよNKK
TKD*1と違いかなりモクモク進む機会の多いNKK*2。
現代の日光街道足立区内もまったくもって住宅街。
これというランドマークがないんですね~
と、文句ばっかいってはいけません。ちゃんと探せばちゃんとあるのです。
①国土安穏寺
島根交差点で環七を渡り、少し行くと国土安穏寺があります。
その入り口にはなんか色々書いてありますが、、
「将軍家御成橋 御成道松並木跡」とあります。
はい、将軍一行が通る道「御成道」です。秀忠・家光などが安穏寺を休息所として利用したとのこと。で、あと「千住堀」ってあるようにここら辺は昔水路が通ってたみたいですね。
色々なところで●●橋という橋のない場所を見かけるのはそんな事情なんですね。
②六月の一里塚
そこから少し行きまして六月一丁目の辺りに一里塚があったそうです。
浅草→千住ときて3里目の一里塚です。けど場所は不明。NKは一里塚もあんまり残ってないっていうかレプリカで盛り上げてくれないんですよね~。
③増田橋
途中「増田橋」という五差路くらいの交差点があるんですが、ここも暗渠。
昔は橋でしたってところですね。
西:旧赤山道ってなってます。
赤山は今の埼玉県川口市です。もともとは岩槻街道だったらしいですが、川口(旧足立郡赤山村)に関東郡代の陣屋が造成されて赤山道と呼ばれるようになったとか。
とりあえず現代は東武線竹ノ塚駅へ行くことができます。
④大曲
さがせば出てくるもんですねー
ここら辺でようやく直線だった街道が右にカーブしていきます。グググっと。
そこで後ろを振り返ったら!バス停「大曲」があるじゃないですか。
大きく曲がってるから「おおまがり」。
バス停は地味に昔の名前が残されてたりするのですよねー。
大曲を過ぎますと国道4号にぶつかりますので、これを渡ります。
4号線とは越谷の先までここでお別れです。
けなが川を渡ったところで東京都が終了。埼玉県草加市に入ります。
谷塚駅着
今回は東武線沿線を歩いてくので街道と駅が近い時はできるだけ駅見物してくことにしました。
で、とりあえず谷塚駅なんですがサラリーマンが憩ってるくらいですねw
時刻は午前八時。出発から3時間経過してました。最初の宿場まで三時間かかってるのでさっさと行かないと日が暮れちゃいます。
ここから草加宿まではそう遠くありません。
途中火あぶり地蔵尊の祠がありました。
故郷の母親に会いたいがために脱走を図ったけどつかまって火あぶりになっちゃった娘さんを弔うための地蔵尊です。
「八百屋お七」ではないですよ、彼女は彼氏に会いたくてってのが理由でしたからね。
草加市のサイトに詳しくありました、詳細はこんな感じ。
火あぶり地蔵(瀬崎町)
http://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1002/a33/06.html
旧四号国道(県道足立・越谷線)沿いの瀬崎町と吉町との境に、「火あぶり橋」という橋があります。橋の際に通称“火あぶり地蔵”と呼ばれる地蔵堂が建っており、昔の処刑場跡と伝えられています。今回は、この地蔵堂にまつわる悲しい話を紹介します。
昔々、千住の掃部(かもん)宿(現在の千住仲町付近)に母親と一人の娘が住んでいました。娘の父は、かなりの借金を残してこの世を去り、後に残された母娘二人は、借金を返済するために一生けんめい働きました。生活は苦しいながらも、人柄の良い親子は、近所のだれからも好かれていました。しかし母娘二人の収入では生活していくのが精一杯で、とても借金を返す余裕などありません。
ある時、瀬崎村のさるお大尽の家で女中を探しているという話を聞き、これがかなりの好条件だったものですから、娘は奉公に出ることになりました。親孝行で働き者の娘は、ここでもみんなから可愛がられ、娘の家の借金もだんだんと少なくなり、幸せな毎日を送っていました。
お大尽の家に奉公に出て何年か過ぎたある時、長い間の無理がたたったのでしょうか、娘の母親が重い病気で倒れ、近所の人に面倒をみてもらっている事を知りました。娘は、主人の気げんのよい時や、ひまな時などを見はからっては、「ご主人様、お願いでございます。母が重い病で伏せっております。看病のために、しばらくおひまをいただきたいのです」と何度も哀願しましたが、主人はどういうわけか、娘の頼みを聞きいれてはくれません。その間にも母の病状は悪化し、娘はいてもたってもいられません。悩みぬいたあげく、「この家が燃えてしまえば、母の元へ帰ることができるのだわ」と考え、大胆にもお大尽の家に放火をしてしまいました。
幸いにも、被害は少なくてすみましたが、「犯人は、誰か」という事で大騒ぎになりました。意外にも、犯人がこの家の働き者と評判の女中であり、放火の理由がわかった時は、村人たちは大いに同情しました。
しかし、火つけの罪は「火あぶりの刑」と定められていましたので、娘はこの地で処刑されてしまいました。村人たちは、この哀れな罪人の霊を慰めるために、講(こう)の人々が中心となって、処刑された場所にお堂を建立し、地蔵を安置して供養しました。
お地蔵さんは現在、旧四号国道の激しい車の往来を何事もなかったかのように眺めています。
草加宿到着
ということで草加宿、ここで1つの謎が解けました日光道がなんか直線的でダラダラ長い謎です。
その昔草加に宿場はありませんでした。千住の次は越谷。しかももっと東の川沿いを大きく迂回する形で越谷に道が続いてたんです。
それをですね、大川図書という人が先頭に立ち沼地であった今の草加を埋め立て、宿場誘致しちゃったんです!
おかげで千住から越谷まで真っ直ぐな一本道ができあがり!
これが理由だったんですね~
ただこのあと草加を過ぎてもその傾向は続きますのでそっちの謎は解けてませんが^^;
ですので古来からの宿場ではなかった草加宿。
草加と言えばやっぱり「草加せんべい」ですよね。
宿場内も御煎餅屋さんがたくさんありました。
草加市役所と地蔵堂
宿場に入るとまず市役所があります。そして敷地のはずれには地蔵堂。
しかし街道には地蔵様が多いですよね。
六地蔵とか。
お地蔵様はそもそもの神様、子供の守り神としての側面の他に日本では辻の神と習合しているんだそうです。
辻の神ってのは塞の神、そう道祖神と同じです。
だから人の往来が多い辻などにはお地蔵様がいるんですね。
そう言えば東海道、小田原風祭の一里塚は道祖神とお地蔵様と一里塚が一体になってました。
人が往来する辻には神様も通ると考えられていて、その中には悪神・悪霊もいたと。
だからそういう悪いのが入ってこないように神様を安置したんですね~
ということでこの市役所のはじっこのもそうなんでしょう。
そうなんかな?またまた草加市役所のサイトに書かれてました、草加ナイス。
別名子育て地蔵。言い伝えでは、浅古家わきを流れていた堀が増水したときに上流から流されてきた地蔵を、浅古家先祖が救い祭ったところ、子宝に恵まれたといいます。
http://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1002/a40/01.html
なんかこの手の神様が流されてくる話ってよく聞きますよね~
いや、聞くんですよ僕はw
浅草寺の、、、あー浅草神社だっけ?本尊も流されてたのが網にかかったかなんかだったもんね。
草加駅入り口交差点の銀行の植え込み辺りに街道標識がありました。
東にいくと葛西道らしいですね。
葛西って江東区の?
でも確かに地図を見るとこのまま八潮に出て下ると環七にぶつかるから葛西道は葛西に行くんだ。うん。
さて、では草加宿を見物しながら進みましょう。
時刻は午前9時。
お店はまだ開かないですから見物だけ。
八幡神社。雌雄一対の獅子頭ってのがあるらしいんで見に行ったんだけど、、、わからなかった…。
ここは藤城家商家跡。何屋さんなのかは案内板にはなかったけど宿屋ではない。典型的な商家造りですね。
本陣跡の碑が二か所、宝暦年間までの大川本陣と、その後明治初期まで続いた清水本陣跡。
宝暦年間は1700年台半ばですね、吉宗が無くなった辺り。
次、東福寺。開基はあの大川図書(ずしょ)!そう、草加宿つくっちゃった人。
パワフルだな。もともと金持ちだったのかな。
そんな時は草加市所HPへ。
草加宿開拓者の一人。『草加宿由来』によれば、かつては土本氏を名乗る武士であり、小田原北条氏に仕えていたが、1590(天正18)年の小田原落城によって浪人となり、岩槻に滞在して年月を送っていた。徳川氏の天下統一のあとで、朋友であった伊奈備前守の計らいにより一時谷塚村に住んだが、その後篠葉村に移った。
言い伝えによれば1606(慶長11)年、付近の村々と相談し、茅野を開き、沼を埋めて、大きく東西に迂回していたそれまでの日光街道をまっすぐにする新道を開いた。
http://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1002/a40/01.html
浪人!?
しかし、草加市いい感じですね、越谷市には少しみならってほしいですな。
草加宿神明庵、地域の紹介所的な。ただ朝なので開いておらず。
そして宿北側外れに神明社。
ここで宿場は終わり、風光明美な「草加の松原」へ続きます。
いやーしかし煎餅が食べたくなってきたなー。
草加はそこだけ行ってもそこそこ楽しめるよい所でしたよ。
今度は普通の時間に焼き立て煎餅を食べに行こう、そうしよう。
つづく。