ブラ○モトシ 坂道編 vol.13 新宿区須賀坂
東京都新宿区若葉1丁目。
界隈の詳細は寺社編の記事をどうぞ。
ブラ○モトシ 寺社編 Vol.10 四谷須賀神社 - ブラ○モトシ
須賀坂、別名天王坂、東福院坂。
一直線に伸びる少々きつめの傾斜、神社入り口から真っ直ぐ新宿通りまで参道の面影を残しながら伸びています。
古地図オープン!
写真の横道はその昔はつながってなかったんですね~ふーん。
地図上の道に段々マーク「|||||」がはいっているので、その昔はもう少し切り立っていて上下の階段坂、もしくは雁木状の坂になっていたのかも。
ところで。
今思えば、限られた背景の中に人々の動きを入れるというスナップの形を教えてくれたのは坂道なんじゃなかったろうか。。。
スナップと坂道の融合を図りながら、まだまだ続く坂道編。
とか言いながらまた気まぐれに変わるかもね。
ブラ○モトシ 坂道編 vol.12 港区 釣堀坂
忘れていたわけじゃない坂道編。
12回目は釣堀坂です。
港区南麻布三丁目9-27。
釣堀坂
坂名の由来はその昔坂下に釣堀があったこと。
現在は釣堀はなくって、とてもひっそりとしていて近隣の住民しか利用しない生活坂になっています。そこがいい!
用がなければ通らない道ってのはなんだかわくわくしますね~
坂としては比較的新しく、釣堀があったのも明治に入ってからのこと。
江戸時代は大名屋敷があった場所のようで、明治期の区画整理の際に作られた坂です。
実際には大きくすり鉢状に伸びる坂でこの地域の高低差がよくわかる良坂です。
またこの坂のマニアックなところは、すり鉢状でありながらも半階段坂であること、それから最初の写真でもわかる通り、その半階段がなぜか途中で途切れていること。
んー不思議です。
古地図古地図!
まずは江戸の古地図から。
稱念寺(称念寺)の南側、、小川が流れている!
この川はさらに南の古川から流れ込み、常盤土浦藩釆女守屋敷を通っているんです。
次に明治期の地図。
麻布の「麻」と「布」の間辺りが釣堀坂の所在地。
このころはまだ坂道がなかった。。。
とすると、、
本村小学校近隣の住人はぐるっと大回りしなければ古川方面・麻布方面には出られなかった。
江戸時代からある小川には釣堀があった。
その釣堀付近から、薬園坂方面に小路を作っちゃった。
てなことが考えられますね。
で、先ほどの謎の行き止まり坂。
この坂、出口だけ妙に狭いんですね。
んー出口の家の人がどいてくれなかった⇒それにしては新しい家だから違うかな?
とまぁ謎多き釣堀坂。とても静かな良い坂です。
ブラ○モトシ 坂道編 vol.11 文京区明治坂
id:crystal0207さんの谷中散歩を拝見してましたところ、
【GR DIGITAL IV】谷中のねこ、根津神社、大木の下の駄菓子屋 - 日々どこかにオラクル
はい、坂道発見★その名も明治坂。
これ「めいじ」でなく「あかじ」って読みます。
あれ??ブラ○モトシシリーズはお休みのはずじゃ?
という熱心な読者の皆さま!(←うえからですんません。)
いいんです!フィーリングが大切です。
インスパイアです。イマジンです。ヘルタースケルター!
指に豆ができたっ!って叫んだのはリンゴスターでしたっけ?
まぁいいや。
閑話休題。
えー。この明治坂。
坂上にえらいお金持ちが住んでたそうな。で、いつしか破産。で、赤字坂⇒明治坂。
はい、ちゃんちゃん。
てな由来です。
坂としては新しい方の坂で、明治に入ってからできたんじゃなかったかな?
江戸坂好きの僕としては、周辺に名坂を配する谷中の中ではマイナーな方。
ただね、中腹の石垣風なところとか、不忍通りの方までズドーンと続く感じとかいいですね。
まわりに雑貨屋さんとアトリエとかあって楽しいです。
あーあと。
ブラシリーズね、これからはあんまり片意地張らずに続けますわ。
毎回古地図とか編集するのかったるくてw
あと、今日は他にも書きたいことあるからちょっと連続投稿!
追伸:ナチュラって普通のフィルムで撮ると普通だよね。
ブラ○モトシ 坂道編 vol.10 文京区 七面坂
荒川区西日暮里三丁目、台東区谷中五丁目境。
ブラモトシ坂道編、記念すべき10回目は谷中に行ったら誰もが見ているけど、意外と通っていない「七面坂」です。
まずは現代図から
七面坂はJR日暮里駅を千駄木方面にしばらく歩くと見えてくる坂です。
左手には古刹天王寺が、右手にも本行寺、経王寺などの有名な寺院が建ち並ぶ昔からの寺社地です。
この道「御殿坂」を緩やかに上ると見える下りの階段坂がTVや雑誌でもお馴染みの「夕焼けだんだん」。
階段の下に続く商店街が「谷中銀座商店街」
こちらもメディアでお馴染みの観光スポットになっています。
そして今回の坂は、あまりメディアには登場しない隠れ良坂なのです!
古地図を見てみましょう。
9番の辺り。「七面延命院」と書かれた場所の下側の道が「七面坂」です。
12番の近くに「千駄木坂下町」とあります、この辺りが現在の東京メトロ千代田線千駄木駅付近。
5番の辺りがJR日暮里駅、6番の辺りがJR西日暮里駅付近となります。
団子坂に、三崎坂。地図を見てもわかるように、川が流れている辺りが低地。
七面坂辺りはかなり急こう配な丘陵地であったことがわかります。
大江戸ホストクラブ!?延命院事件
時は享和年間1803年。
延命院の僧「日道」が寺社奉行脇坂安董に摘発され処刑された!
罪状はなんと「女犯」、大奥がらみの一大スキャンダル!
その名も「延命院事件」は谷中七面延命院を舞台にしたノンフィクション。
元歌舞伎役者の僧「日潤」、そして日道は夜な夜な奥女中との密通に励んでいた…。
美男僧と奥女中、延命院はまるで江戸時代のホストクラブ状態だったとか。
「女犯」が元で僧が晒しものにされるのも珍しくはない江戸時代。
処刑となった破戒僧達は、幕府の秘密隠匿の為口封じをされたのでは!?
奥女中、色めき立って 七面坂
七面大明神を祀る延命院。その名前から「七面坂」は名付けられました。
今では夕焼け段々の脇にひっそりと佇む坂ですが、天王寺門前の三崎坂方面から堂々と通うよりは、裏道からこっそりと七面坂を上っていた、のではないでしょうか?
延命院は写真一枚目の右手前に門があり、今も現存しています。
そんな浮世話に想いを馳せて、夕焼けのぞむ七面坂。
谷中に訪れたらぜひ、段々だけでなく、こちらの坂も上り下りしてみて下さい。
ブラ○モトシで使用している古地図は人文社様の承諾を得て掲載しています。
切絵図・現代図で歩くもち歩き江戸東京散歩 (古地図ライブラリー (別冊))
ブラ○モトシ 坂道編 vol.9 台東区上野清水坂
先日上野に散歩に行った際、嫁がノラちゃんと戯れている間、僕は清水寺にいました。
ぶらフォト 上野公園編 / NEX with Fisheye for Holga - ブラ○モトシ
上野公園、西郷さんの銅像から近い場所なのでご存知の方も多いかもしれません。
「坂」といってもここはいわゆる「階段坂」です。
まずは現代図を見てみましょう。
京成上野駅方面から、公園に入るとすぐにあるのが「清水観音堂」です。
はい、ここはそのまま京都にある清水寺を模したものなんですね。
(この時代まねっこ文化は普通です。「見立て」という文化ですね。)
その証拠に観音堂には「舞台」もあります。
もちろん本家にはかなわない広さですが、どうしてここに清水寺が作られたのでしょうか。
では古地図を見てみましょう。
現在のJR上野駅から上野動物園、国立博物館に至る広範囲すべてが上野寛永寺の境内でした。
寛永寺は家康の側近「僧・天海」によって創建された天台宗の寺院。
二代将軍秀忠は天海の為に諸藩の下屋敷があったこの一帯を与えたんです。
では、京都清水寺を模した清水観音堂はどうして建てられたか?
天海はここに比叡山延暦寺をそっくり作りたかったんではないでしょうか。
上野の山を比叡山、不忍池を琵琶湖、そして清水寺。
弁天島から大仏様まで天海はいろんな施設を作っていきます。
そう!天海はテーマパークを作りたかったわけです。
(まぁすごく噛み砕いて言えばーですが。)
この辺りで幕府と天海との間に考え方のずれなどが生じて…云々あるのですが今回は割愛して、
そんな施設のうちの1つが清水堂だったわけです。
貴重な写真をご覧ください。
上野清水観音堂前の道。右手の階段が清水坂かもしれません。
この写真は清水坂を登りきった観音堂脇の写真。
そして、これが清水坂から直進した石段の先、不忍池方向を撮ったもの。
ちょうどこんな感じの構図になりますね。
上野公園を歩いていると、未だにどこがどこだかわからなくなります。
そんな迷っている中に大仏、五重塔、鳥居・・・
動物園に遊園地に、、美術館・博物館・・・
天海さんの想いはわかりませんが、人々が集まれる場所。
そんなところにしたかったんじゃあないでしょうか。
などと考えながら清水坂を上るのも中々オツなものです。
寛永8年(1631年)にたてられた観音堂は重要文化財に指定されています。
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今回のブラ○モトシ坂道編いかがでしたか?
小さい頃から通い慣れた上野公園は、それでも未だに発見がいっぱい。
何度でも訪れたくなる下町のオアシスなんです★
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ブラ○モトシで使用している古地図は人文社様の承諾を得て掲載しています。
切絵図・現代図で歩くもち歩き江戸東京散歩 (古地図ライブラリー (別冊))
ブラ○モトシで使用している古写真は長崎大学付属図書館様の承諾を得て掲載しています。
幕末・明治期 日本古写真メタデータ・データベース
ブラ○モトシ 坂道編 vol.8 港区 我善坊谷坂
港区麻布台一丁目1番と2番境
僕の記憶に残る坂。
少なくとも過去に3回は訪れたことがある坂。それが今回の我善坊谷坂です。
まずは現代図を
明らかに僕はここに幾度か訪れている。
10代のころ20代のころ、、、どうしてここに来たのかはわからないけれど、記憶の中に確かにここを上った、下ったことがある。
坂の中腹には花屋さんがあって、古い民家がある。
そして、そこから見上げると東京タワーが見えたんだ。
夢にも何度か出たことがある。
傾斜のきつい、緩やかにカーブした坂道。
10代のころから、ただただブラブラするのが好きだったから、きっと東京タワーに来たついでに近くをブラブラした時、きっとこの坂を上ったに違いない。
と、今記憶と現実が結びついた気がした。
では古地図を見てみましょう。
そんな僕の記憶に残る坂「我善坊谷坂」は名前からしてユニークな坂道です。
古地図にあるように、幕末のころには「ガゼンボ谷」の表記があります。
この坂下一帯はもともと「我善坊谷」と呼ばれていたのです。
では、なぜ「我善坊谷」なのかというと名前の由来には諸説ありますが1626年徳川二代将軍秀忠の正室「お江」が没した際、葬儀が芝・増上寺で行われました。
葬列はこの谷間を通り、ここに仮の御堂が置かれました。
その名を「龕前堂(がんぜんどう)」と言い、これがなまって「がんぜんどう谷」→「我善坊谷」となったという説があります。
拡大してみると我善坊谷をはさんで上下二つの坂があることがわかります。
地図上、道に横縞が引いてある部分です。
この北側の坂が「我善坊谷坂」、南側を「三年坂」と呼ばれています。
「三年坂」は寺社などの裏手にあるような坂に多くつけられた名ということなので、古地図の幕末には寺社が近くにないことから、この両坂の名前は明治以降につけられたものなのではないか?というのが僕の考察です。
その辺りは明治時代の地図なども参照する必要がありそうなので、また別の話としておきます。
僕の記憶に色濃く残る坂「我善坊谷坂」は、どこか懐かしい風景を数歩の間だけ感じさせてくれる素敵な坂でした。
このままの景色がなくならないうちにまた訪れたいと思います。
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↑こんかいのブラ○モトシいかがでしたか?どこか懐かしい記憶をよみがえらせてくれるこの坂。今完全によみがえった記憶によるとおそらく16歳。高校生の時にデートの最中に上った、その記憶が一番古いようです。
ブラ○モトシ 坂道編 vol.7 港区 道源寺坂
東京都港区六本木1丁目4番地
南北線六本木一丁目駅3番出入り口の未来的エントランスを出て右に一回り。
唐突に、辺りに似つかわしくない空間が姿を現します。
坂下の西光寺から坂上の道源寺までを結ぶ坂道源寺坂を今回は上ってみました。
まずは現代図を
マップを拡大するとわかるように、場所はちょうど首都高速谷町ジャンクションの真下辺り。
坂下から上の道源寺まではわずか数十メートル。
この数歩の間に江戸情緒を感じられる希有な坂と言っていいでしょう。
坂上の道源寺は1624年創建の古刹。江戸開府以来この坂は道源寺坂(道源坂)と呼ばれていたそうです。
戦災を免れたのであろう巨木と近代的な巨大ビル群。
なにかここだけが時間にひっそりと取り残された感じがします。
では古地図を見てみましょう。
東を上にしてみた様子。
東西に高台が広がり、ちょうど窪地になったこの辺りを「谷町」と呼んでいました。
高台には各大名の屋敷が広がり、谷あいには寺社や町家が立ち並んでいたことがわかります。
道源寺付近と現在のランドマークを拡大してみました。
辺りの様子はまったく変わっているのに、この道源寺坂だけは今も変わらずにその形を残しています。
大正9年、この地に移り住んだ永井荷風は銀座や下町に出かける際は、わざわざこの坂を選んで下ったそうです。
その時に詠んだ句が
「梅が香や木魚しずかに竹の奥」
つま先に力を入れる程ではないが、すこし踏みしめなければいけない位の坂。
ゆっくりと下っていく数メートルの間に感じる風情。
別の季節にもぜひ訪れたい良坂です。
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↑今回のブラ○モトシいかがでしたか!?実際には荷風先生のように優雅に坂に接したというより、坂下で買ったスポーツドリンクが坂上ではもう空になっていた。という位の猛暑!ぜひ梅の季節に再訪したと思います。
ブラ○モトシ 坂道編 vol.6 港区 狸穴坂
港区麻布狸穴町と麻布台二丁目境
going up to “狸穴天国” 東京はお洒落な迷宮
サザンオールスターズ「愛と欲望の日々」
出だしで歌われる「まみあな」とはここ「麻布狸穴町」のことでしょうか?
都内に「狸穴」はここだけなので、おそらくそうなんでしょうね。
また、FC東京のマスコット「東京ドロンパ」はここの出身であるという設定らしく、そう思うといままで気にもしなかったこの地名が何やら近しいものに感じてくるから不思議ですね。
そんな狸穴坂はロシア大使館西側の側面を下るおよそ250m程度の坂。
傾斜はそこそこなものの距離があるので若干なだらかに感じます。
僕は基本一直線に細い坂が好みなんですが、幅広の坂としては緩やかなS字カーブが魅力的でした。
ロシア大使館からの下り道は、東京アメリカンクラブの石垣が真新しいのと、反対側の斜面が建設中の為すこし趣がありません。
坂中腹の写真のあたり、木造2階建ての民家が昔らしい景色を演出してくれていたので、一枚。
まみとは雌タヌキ・ムササビまたはアナグマの類で昔その穴が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。
港区の標識にはこのように書かれてました。
これ以外にも「魔魅」(妖怪)がでるからとか、採掘用の穴(間歩・まぶ)が開いていたからと諸説あるようですが、ようするに少しうっそうとしていて、坂下には何やら洞穴が開いてるそんなところだったんですね。
タヌキも妖怪も採掘場もやっぱりどれもちょっとオドロオドロしいものを感じるから、昔から少しうらぶれた雰囲気だったのでしょう。
ところでこんな話があるので少しご紹介します。
昔、この坂の下に作兵衛蕎麦という蕎麦屋があった。
そして、狸穴には古だぬきが住んでいて江戸城の大奥を荒らしまわっていた。
ある日この古だぬきは内田正九朗という武士に討ち取られたんだけれど、哀れに思った作兵衛さんはこお古だぬきを屋敷に祀ったので「狸蕎麦」と呼ばれて大変繁盛したそうな。
めでたし、めでたし、、、、ん?
たぬき・狸穴・大奥?
「愛と欲望の日々」はドラマ「大奥~第一章~」の主題歌。
ん~なんかつながりが見えてきた気が??
では古地図を見てみましょう。
秋田安房守下屋敷が、現在のロシア大使館の敷地になっていますね。
坂下、現在の「狸穴公園」前の東西に走る道はまだ無く「この辺り十番と云う」と書かれた通りを南下すると現在の麻布十番駅近くへと抜けます。
江戸開府当時はまだ農村地帯だった麻布。
次第に都市化が進む中で、坂下に空いた穴の真相は…謎になってしまったんでしょうね。
坂を下りきった地点の標識。
ここから手前方向に進むと古河沿いの道へ至ります。
おそらく謎の穴もこの辺りに??
景観:★★
斜形:★★★
歴史:★★★★
総合:★★★
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愛と欲望の日々って曲知らなかったんで探したらありました↓PVもなんか江戸な感じです。